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東京地方裁判所 昭和42年(ワ)7928号 判決 1970年2月10日

原告 東京明治不動産株式会社

右代表者代表清算人 坂本雄三

右訴訟代理人弁護士 柴田政雄

同 筒井健

被告 松平商事株式会社

右代表者代表取締役 松平重夫

右訴訟代理人弁護士 多田武

主文

被告は原告に対し、金一、六三三、三三三円およびこれに対する昭和四二年八月二日から支払済みまで年六分の割合による金員の支払いをせよ。

原告のその余の請求を棄却する。

訴訟費用はこれを八分し、その一を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。

この判決は主文第一項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一、当事者の求めた裁判

原告

「被告は原告に対し金一二、四〇〇、〇〇〇円、およびこれに対する昭和四〇年一二月一日から支払済みまで年六分の割合による金員の支払いをせよ。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決、および仮執行の宣言。

被告

「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決。

第二、当事者の主張

一、原告の請求原因

(一)、昭和三九年七月二九日、原告(当時の商号は明治不動産株式会社)は被告から被告所有の東京都港区赤坂田町四丁目一三番地所在鉄筋コンクリート造、地下三階地上一〇階建松平ビルのうち八階五五坪(以下「本件建物」という)を、賃料一箇月三〇〇、〇〇〇円、毎月二五日に翌月分を支払う、賃貸期間一五年と定めて賃借し、その際、右賃貸借契約(以下「本件賃貸借契約」という)が終了した時には返還するという定めで、保証金一三、〇〇〇、〇〇〇円を被告に預託した。

(二)、昭和三九年一二月末日をもって、原、被告は本件賃貸借契約を合意解除し、同日、原告は被告に対して本件建物を明渡した。

(三)、仮に、右合意解除の事実が認められないとしても、原告は被告の承認を得て、本件建物賃借権を昭和三九年一二月末日をもって明治興産株式会社(昭和四〇年七月一五日、商号を一平興産株式会社と変更)に譲渡したから、これによって、原告と被告との本件建物賃貸借関係は終了した。

(四)、よって、原告は被告に対し、前記保証金一三、〇〇〇、〇〇〇円のうち、原告が滞納した賃料二箇月分(昭和三九年一一月および一二月分)合計六〇〇、〇〇〇円を控除した残額一二、四〇〇、〇〇〇円、および、これに対する約定弁済期後である昭和四〇年一二月一日から完済に至るまで、商事法定利率である年六分の割合による遅延損害金の支払を求める。

(五)、原告は訴状の陳述によって、原告が本件建物の昭和四〇年一〇月一一月分の賃料の支払いを怠ったため、同年一一月末頃、被告が原告に対して本件賃貸借契約解除の意思表示をし、これによって、本件賃貸借契約が解除され、以後原告は本件建物を使用できなくなったと主張したが、右主張は事実に反するものであり、原告訴訟代理人の錯誤に因るものであるから、右主張は撤回し、前記(二)のとおり主張する。

二、請求原因に対する被告の答弁

(一)、請求原因(一)の事実のうち、被告が原告に対して、本件建物を原告主張の日に、その主張のとおりの約定で賃貸したこと原告主張のとおりの金額の保証金を被告が受領したことは認めるが、その余の事実は否認する。

(二)、請求原因(二)の事実は否認する。本件賃貸借契約は、昭和四〇年一一月末日に原告が本件建物を被告に明渡したことによって解約となったものである。原告は訴状の陳述によって、本件賃借契約終了の時期を昭和四〇年一一月末日と主張し、被告はこれを認めたのであるから、原告が、本件賃貸借契約終了の時期を昭和三九年一二月末日と変更主張することには異議がある。

(三)、請求原因(三)の事実は否認する。明治興産株式会社は原告から本件建物を転借したものである。

三、被告の抗弁

(一)、本件賃貸借契約には、次のとおりの約定が含まれている。

(1)、保証金一三、〇〇〇、〇〇〇円のうち一〇箇月分の賃料額に相当する三、〇〇〇、〇〇〇円は、保証金の償却として被告の取得とし、本件賃貸借契約が終了しても、被告は原告に返還するを要しない。

(2)、原告は被告に対して約定賃料のほかに、管理費用を支払う。管理費用の額は、昭和四〇年五月分までは一箇月九九、〇〇〇円と、昭和四〇年六月分以降は一箇月一〇〇、〇〇〇円と定められた。

(3)、約定賃貸借期間中に、原告の都合で本件賃貸借契約を解約するときは、原告は被告に対して、本件建物に新賃借人が入居するまでの、本件建物の賃料を支払う。

(二)、原告は昭和三九年一一月分から昭和四〇年一一月分までの約定賃料、管理費用のうち五、一〇〇、〇〇〇円を支払わなかった。また、本件賃貸借契約が解約されたのは、原告の営業不振という原告の都合に因るのであり、本件建物に新賃借人が入居したのは昭和四二年八月一日であるから、原告は前記(3)の約定によって、被告に対して昭和四〇年一二月一日から昭和四二年七月三一日までの一箇月三〇〇、〇〇〇円の賃料合計六、〇〇〇、〇〇〇円を支払うべき債務を負担した。そこで、被告は本件の昭和四二年一〇月二三日午前一〇時の口頭弁論期日において先ず昭和三九年一一月分から昭和四〇年一一月分までの未払賃料、管理費用五、一〇〇、〇〇〇円、次に本件賃貸借契約解約後新賃借人入居時までの賃料六、〇〇〇、〇〇〇円の各支払請求権と、保証金一〇、〇〇〇、〇〇〇円の返還債務を対等額において相殺するという意思表示を原告に対してした。したがって、被告の原告に対する保証金返還債務は右相殺によって全部消滅した。

四、抗弁に対する原告の答弁

(一)、抗弁(一)の事実のうち、(1)、(3)の約定がなされたことは認めるが、その余の事実は否認する。(3)の約定は、保証金返還の条件として、「新賃借人が本件建物に入居した時」という保証金返還債務者である被告の意思のみに係る条件を付したものであるから、法律上無効である。

(二)、抗弁(二)の事実のうち、被告がその主張のとおりの相殺の意思表示をしたこと、原告が昭和三九年一一月、一二月分の本件建物賃料合計六〇〇、〇〇〇円を支払わなかったことは認める。本件建物に新賃借人が入居した時期は知らない。その余の事実は否認する。

五、原告の再抗弁

(一)、仮に、原告が本件建物の昭和四〇年一月分から同年一一月分までの賃料、管理費の支払債務を負担したとしても、昭和四〇年一一月頃、本件建物を実際に使用していた一平興産株式会社、および明治開発株式会社と被告との間で、原告の右債務の一部の弁済に代えて、右両社所有の什器備品を被告に譲渡することを合意して、これを原告に引渡し、さらに松平ビルの七階を賃借していた明治開発株式会社と被告の間で、右会社の被告に対する一三、〇〇〇、〇〇〇円の保証金返還債権の一部をもって、前記の原告の債務の残額を相殺するという合意がなされ、これによって、原告の前記債務は全部消滅した。

(二)、被告の抗弁(一)の(1)、(3)の約定は公序良俗に違反するから無効である。すなわち、保証金の償却が、被告主張のように賃貸物の損耗、破損等の修復費用に充てることを目的としたものであるとしても、賃料月額の一〇箇月分というのは高額に過ぎ暴利を得るものである。また、賃貸借契約終了後も、新賃借人が入居するまで賃料を支払うという約定は、被告をして、その意思のみによって、何も労することなく賃料と同額の利益を不当に得させるものである。加えて、原告は倒産して清算中であるが、約二五〇名の債権総額約四〇四、〇〇〇、〇〇〇円の債権者は、原告が本件保証金の返還を受けられなければ、全く債権の弁済を受けられなくなる状態にある。被告が主張する、本件賃貸借契約において、賃貸借の期間が一五年という長期間に定められたということも、賃料据置期間が三年と定められたこと、および本件建物は営業用ビルであって、その賃貸借については、約定期間を短期としても、実際には契約の更新を拒絶することが困難で、長期の賃貸借期間を定めたのと同一に帰することを考えると、賃借人である原告にとって特段有利な約定ではなかったし、また、原告の系列会社に対する本件建物賃借権の譲渡、または転貸の自由を認めるという約定も、系列会社の範囲が明らかにされていないうえ、系列会社への譲渡、転貸では原告が利益を得るということはできないから、原告にとって特段の利益とはならないのである。したがって、本件賃貸借契約において、被告が主張する右のような各約定がなされたということは、被告の抗弁の(一)の(1)、(3)の約定の反公序良俗性を否定することにはならない。

(三)、仮に、右の主張が失当であるとしても、保証金の償却の約定は、本件賃貸借契約の約定期間である一五年が満了した場合における本件建物の損耗、破損等の修復費用に充てることを目的としているのであるから、本件賃貸借契約がわずか、五箇月で終了し、本件建物が明渡され、さらに、原告が倒産して前記のような事情があるにかかわらず、被告が約定どおりの保証金の償却を主張することは、権利の鑑用である。

六、再抗弁に対する被告の答弁

(一)、再抗弁(一)の事実は否認する。再抗弁(二)、(三)の主張はいずれも争う。

(二)、被告の抗弁(一)の(1)の保証金の償却の約定は、本件建物の損耗、破損等の修復費等に充る目的で定められたものであり、このような約定は、賃貸借契約において行われるのが通常であって、何ら公序良俗に反するものではない。また、被告の抗弁(一)の(3)の約定は、本件賃貸借契約において、期間が一五年という長期間に定められたこと、原告が、その系列会社に本件建物を転貸し、または本件建物賃借権を譲渡することを被告は無条件で承諾するという、賃貸人である被告にとっては重大な不利益の発生が予想される約定がなされたこと等との対価的関係において定められたもので、原告に一方的に不利益な約定ではないから、公序良俗に反するものではない。また、原告が倒産し弁済を受けられない多数の原告に対する債権者がいるというようなことは、被告とは全く無関係のことであり、被告の抗弁(一)の(1)、(3)の約定に基く権利の行使をもって、権利鑑用であるとする理由にはならない。

第三、証拠関係≪省略≫

理由

(一)、昭和三九年七月二九日、原告が被告からその所有の東京都港区赤坂田町四丁目一三番地、地下三階地上一〇階建松平ビルのうちの、八階五五坪(本件建物)を、賃料は一箇月三〇〇、〇〇〇円とし、毎月二五日に翌月分を支払う、賃貸期間は一五年、という定めで賃借したこと(本件賃貸借契約が成立したこと)、その際、原告が被告に保証金として一三、〇〇〇、〇〇〇円を交付したことは、当事者間に争いがない。

(二)、本件賃貸借契約の終了について、

(1)、原告が当初訴状の陳述によって、「原告が昭和四〇年一一月、一二月分の賃料の支払いを怠ったため、同年一一月末頃、被告が原告に対して本件賃貸借契約解除の意思表示をし、これによって本件賃貸借契約が解除され、以後、原告は本件建物を使用できなくなった」と主張し、被告が、「昭和四〇年一一月末に、原告が被告に本件建物を明渡したことによって、本件賃貸借契約が終了したことは認める。」と述べたことは明らかである。被告は、右のように原告主張の本件賃貸借契約終了の時期を被告が認めたのであるから、原告が本件賃貸借契約終了の時期についての前記の主張を変更することには異議があるという。しかし、原告の本件請求は、本件賃貸借契約の終了を理由として、本件賃貸借契約について原告が被告に預託した保証金の返還を求めるものであるから、本件賃貸借契約の終了原因事実については、原告に主張、立証責任がある。したがって、原告の前記の主張はいわゆる先行自白には当らないから、被告が本件賃貸借契約が昭和四〇年一一月末に終了したことを認めても、原告が前記の主張を変更することについては、拘束を受けない(のみならず、昭和四〇年一一月末に本件賃貸借契約が終了したという点についての主張の合致は、法律効果についての主張の合致に過ぎず、事実上の主張についての合致ではない。そして、事実上の主張である、本件賃貸借契約の終了原因事実についての原告の前記主張事実を、被告が認めたものでないことは、前記の被告の陳述から明らかである)。したがって、原告が、本件賃貸借契約終了の原因事実、終了の時期についての前記の主張を変更主張すること自体に対する被告の異議は前記の主張が事実に反するか否か、原告訴訟代理人の錯誤に因るか否かについて判断するまでもなく理由がない。

(2)、≪証拠省略≫によると、原告は本件建物を賃借して以来、これを原告の会長室と称して使用していたが、昭和三九年一二月頃、当時会長であった遠藤一平が辞任することになり、会長室が不必要となったので、その頃、新宿所在の料理店春香園において、会長室の解散式が行われ、被告の代表者もこれに出席したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。しかしながら、≪証拠省略≫によると、右解散式後も引続いて昭和四〇年一一月末頃まで、遠藤一平、および人数は減少したが原告の従業員であった右斎藤らが本件建物を使用していたことが認められること、証人三浦信夫の、昭和三九年一二月頃、原告と被告の間で本件賃貸借契約の解除、保証金の返還の話合いはなかった旨の証言等を考え合わせると、前記認定事実のみから、原、被告間に、本件賃貸借契約を昭和三九年一二月末日をもって解除するという合意が成立したということを推認することはできず、他に右の合意が成立したことを認めるに足りる証拠はない。

(3)、≪証拠省略≫を合わせて考えると、本件賃貸借契約には、原告の同系会社が本件建物に入居することを、被告は無条件に承認する、という約定が含まれていたこと、本件建物に昭和四〇年一、二月頃から明治興産株式会社なる表札が、同年六、七月頃から一平興産株式会社なる表札が掲示されたこと、明治興産株式会社は本店所在地を大阪市南区久佐衛門町三三番地とし、遠藤一平が代表取締役である会社で、昭和四〇年六月二八日、その商号を一平興産株式会社と変更し、同年七月一五日、右変更を登記し同年三月二日、松平ビル所在地にその支店を設置し、同年七月一五日、その登記をしたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。しかしながら、右認定事実のみからただちに、原告が本件建物賃借権を明治興産株式会社に譲渡したということを推認することはできず、他に、原告が本件建物賃借権を明治興産株式会社に譲渡したことを認めるに足りる証拠はない(のみならず、本件建物賃借権が原告から明治興産株式会社に譲渡されたとすれば、原告が被告に交付した保証金返還請求権も、原、被告、および明治興産株式会社の三者間に特段の合意がなされない限り、明治興産株式会社に承継されると解するのが相当であるから、右の合意の成立を主張しないで、本件建物賃借権の明治興産株式会社への譲渡のみを主張することは、保証金返還請求をする原告にとっては、無意味なことと考えられる)。

(4)  昭和四〇年一一月末日に、被告が原告から本件建物の明渡しを受けたことは、被告がみずから認めているところであるから、本件賃貸借契約は、遅くとも昭和四〇年一一月末日には少くとも黙示的合意によって、解除されたということができる。

(三)、本件賃貸借契約において、原告が被告に交付した保証金のうち、一〇箇月分の賃料相当額三、〇〇〇、〇〇〇円は保証金の償却として被告の取得とし、本件賃貸借契約が終了しても被告は原告に返還するを要しない旨の約定がなされたことは当事者間に争いがない。そして、弁論の全趣旨によると、右約定によって被告が取得することとされる三、〇〇〇、〇〇〇円は、主として本件建物の賃貸中の損耗、破損等の修復費に充てることを目的としたものであることが認められる。右認定のような前記約定の目的と、被告が保証金の償却として取得できる金額と本件賃貸借契約終了までの期間との関係について、特段の明示の約定がなされたことを認めるに足りる証拠がないことからすると、前記の約定は、本件賃貸借契約の約定期間である一五年が満了した場合に、被告が保証金の償却として取得できる金額を三、〇〇〇、〇〇〇円と定めたものではあるが、本件賃貸借契約の終了時期如何にかかわらず、被告が保証金の償却として三、〇〇〇、〇〇〇円を取得できるということまで定めたものと解するのは相当でなく、本件賃貸借契約が約定期間満了前に終了した場合に、被告が保証金の償却として取得できる金額は、三、〇〇〇、〇〇〇円に対する、約定期間と賃貸借終了までの期間との比率に応じた金額であると解するのが相当である。

原告は、前記の約定は被告に暴利を得させるものであるから公序良俗に反し無効であると主張するが、前記約定によって被告が取得できる金額を右のように解するならば、本件建物の構造、面積、約定賃料額等に照らして、被告に暴利を得させるものとはいえないから、原告の右主張は採用できない。また、原告は、前記約定によって被告が保証金を取得することは、権利の濫用であると主張するが、前記約定を右のように解するならば、仮に、原告の倒産によって、原告主張のような多数、多額の原告に対する債権者が、その債権の弁済を受けられない状態にあるとしても、被告の前記約定による保証金の取得をもって権利の濫用であるとはいえないから、原告の右主張も採用できない。

本件賃貸借契約が昭和四〇年一一月末日に終了したことは前記のとおりであるから、本件賃貸借契約存続期間は一年四月(端数三日間は切捨)であり、被告が前記の約定によって、原告から交付を受けた保証金のうちから、その償却として取得できる金額は、二六六、六六七円(円未満四捨五入)となる。

(四)、本件建物の賃料が一箇月三〇〇、〇〇〇円と定められたこと、原告が昭和三九年一一月一二月分の賃料合計六〇〇、〇〇〇円の支払いをしていないことは、当事者間に争いがない。

≪証拠省略≫を合わせて考えると、本件賃貸借契約において、原告は被告に対して賃料のほかに、本件建物の電気、瓦斯、水道、冷暖房、および衛生費、松平ビル共用部分の維持管理費(一括して「管理費」という)を毎月支払うことが約定されたこと、右管理費は本件賃貸借契約の当初は、月額九九、〇〇〇円、遅くとも昭和四〇年六月分以降は月額一〇〇、〇〇〇円と定められたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。してみると、昭和三九年一一月分から昭和四〇年一一月分までの本件建物の賃料、管理費の合計は、五、一九三、〇〇〇円となる。

原告は、昭和四〇年一一月頃、一平興産株式会社、および明治開発株式会社と被告との間で、本件建物の昭和四〇年一一月分までの賃料、管理費債務の残存額について、代物弁済、相殺の合意ができ、これによって右残債務は全部消滅したと主張するが、一平興産株式会社、明治開発株式会社と原告との間で、本件建物の賃料、管理費について、代物弁済、相殺等の合意がなされたことを認めるに足りる証拠はない。

(五)、本件賃貸借契約において、約定賃貸借期間中に、原告の都合で本件賃貸借契約を解約するときは、原告は被告に対して本件建物に新賃借人が入居するまでの本件建物の賃料を支払うという約定がなされたこと、本件賃貸借契約が原告の都合によって解約されたことは当事者間に争いがなく、≪証拠省略≫によると、本件建物に新賃借人が入居したのは、昭和四二年八月一日であることが認められ、右認定を妨げるに足りる証拠はない。

原告は、右約定は保証金の返還について、返還債務者である被告の意思のみに係る「本件建物に新賃借人が入居したとき」という条件を付したものであるから、無効であると主張するが右約定は、被告の保証金返還債務の効力発生に「本件建物に新賃借人が入居したとき」という停止条件を付したものではなく、本件賃貸借契約で定められた一五年の約定賃貸借期間中に、原告の都合によって本件賃貸借契約が解約されたときには、原告は解約後も一箇月について約定賃料と同額の金員を支払う債務を負担すること、右債務の消滅を「本件建物に新賃借人が入居したとき」という条件にかからせたものと解されるから、右条件は解除条件であると解するのが相当である。してみると、右条件が被告の意思のみに係るものであるか否かを判断するまでもなく、原告の前記の主張は採用できない。

原告は、前記の約定は、本件賃貸借契約終了後も被告に、何ら労することなくして、その意思のみによって、本件建物の賃料と同額の不当の利益を得させるものであるから、公序良俗に反し無効であると主張するが、本件賃貸借契約において賃貸借期間を一五年と定め(賃貸借期間の定めは、原則としては約定期間中における法定解除権以外の解除権の放棄を意味する)ながら、≪証拠省略≫によると、原告が文書によって一年前に予告することによって、何時でも解除することができると定められたことが認められるのであり、前記約定は、右認定の約定に基いて本件賃貸借契約が約定期間中に解除された場合に、被告が本件建物による賃料収入を得られないことによって受ける損失を原告が填補することを約定したものと解されるのであり、被告が約定期間の拘束を受けること(≪証拠省略≫によると、本件賃貸借契約において、原、被告いずれかが本件賃貸借契約を解除しようとするときは、相手方に対して二箇年前に書面により申出るものとする、という定めがなされたことが認められるが、右約定は、借家法に照らして考えれば、被告に関しては特段の法律上の効力を生じない約定であるということができるし、原告に関しては、前記認定の任意解除の約定に照らし無意味な約定である)、他面、被告は約定期間中の賃料収入の期待権を有すること等と対比して考えると、前記約定をもって公序良俗に反するものということはできない。

さらに原告は、被告が前記約定に基く権利を行使することは権利の濫用であると主張するので考えてみるに、前記約定は、前記認定のとおり原告が本件賃貸借契約を約定期間中に解除する場合には、一年前に予告するということを前提として定められたものであるから、前記約定に基いて原告が被告の損失填補債務を負う期間は、比較的短期間と予測されたであろうことは推認するに難くない。しかるに、前記のとおり本件賃貸借契約が合意解除されたのが昭和四〇年一一月末日で、本件建物に新賃借入が入居したのが昭和四二年八月一日であり、前記約定によって原告が賃料相当額の被告の損失填補債務を負う期間が一年八箇月となったのであり、右期間は、本件賃貸借契約の存続期間が一年二箇月余であったことも考えると、余りに長期に過ぎるという感がないではない。しかし、前記約定は、原告が一年前に解除の予告をすることを前提としたものであるにかかわらず、原告が本件賃貸借契約解除の予告をしたことを認めるに足りる証拠はないこと、また、被告が相当な条件での本件建物賃借の申込があったのにこれを拒絶したとか、あるいは本件建物の賃借人を求める努力を一向にしなかったというような、本件建物による賃料収入をみずからとざすような特段の事情があったことを認めるに足りる証拠もない以上、仮に、原告の倒産によって、原告主張のような多数、多額の原告に対する債権者が弁済を受けられない状態にあるとしても、被告が前記約定に基く権利を行使することをもって、権利の濫用であるということはできないものと考える。

してみると、原告は被告に対して昭和四〇年一二月分から昭和四二年七月分までの本件建物の約定賃料相当額である六、〇〇〇、〇〇〇円の支払債務を負担したものといわなければならない。

(六)、昭和四二年一〇月二三日午前一〇時の本件口頭弁論期日において、被告が、原告に対する前記(四)の賃料、管理費債権の残額五、一〇〇、〇〇〇円、右(五)の賃料相当額支払請求権六、〇〇〇、〇〇〇円をもって、原告に対する保証金返還債務の対等額を相殺するという意思表示をしたことは当事者間に争いがない。そして、右相殺の自働債権が右相殺当時既に弁済期が到来していたことは、前記(四)、(五)に記載したところから明らかである。してみると被告が原告から受領した保証金のうち、前記(三)のとおり、償却分として被告が取得する二六六、六六七円を除いた残額一二、七三三、三三三円の返還債務のうち、一一、一〇〇、〇〇〇円は右相殺により消滅したものといわなければならないから、被告の保証金返還債務の残額は、一、六三三、三三三円となる。

原告は、昭和四〇年一二月一日以降の遅延損害金の支払いを求めているが、昭和四〇年一一月末日までに被告の保証金返還債務の履行期が到来したことを認めるに足りる証拠はなく、≪証拠省略≫によると、本件賃貸借契約において、原告の都合で契約が解除されたときは、被告は本件建物の新賃借人から受領した保証金によって、原告に対する保証金の返還をする、と定められたことが認められ、右約定によると、被告の保証金返還債務の履行期は、被告が本件建物の新賃借人から保証金を受領した時である。そして、本件建物に新賃借人が昭和四二年八月一日に入居したと認められることは前記のとおりであり、他に特段の事実が認められない以上、被告は新賃借人入居の時までに新賃借人から保証金を受領したものと推認するのが相当である。してみると、被告の原告に対する保証金返還債務の履行期は、昭和四二年八月一日には到来したということができる。

結論

以上のとおりであるが、原告の本件請求は、一、六三三、三三三円、およびこれに対する昭和四二年八月二日以降完済に至るまでの、商事法定利率である年六分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度においては理由があるが、右を超える部分は理由がない。

よって、原告の請求を右の理由のある限度において認容し、その余を棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第九二条、仮執行の宣言について同法第一九六条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 寺井忠)

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